星影にひそむ星々の会話~星座の文法~

精神障害者ピアサポーターをしている僕の徒然

体調の波

 ココロの病には体調の波があるのが普通だと思う。

一頻り佳くなっても一頻り悪くなる。そんな一喜一憂をしているうちに、疲れ果ててしまう。一定の精神状態に持っていくのにかなりの歳月を費やしてしまう。転職したいという気持ちが生じるのも、もしかしたら佳からぬ体調の波がなせる業なのかもしれないい。退職してから嘆く人々は実際、随分と多い。「わたしの生きる上での哲学や考え方に今の会社の方針が合わないから」というのであれば、形而上学の観点からその当人が俯瞰しているので、一見、全うにも高尚にも響くのだが、よくよく内省を深めなければそれも体調の波がなせる業なのかもしれない。Dr.とも相談したほうがいいし、地域生活支援センターでも相談したほうがいい。地域生活支援センターには生活支援のプロがいて、家族支援の観点なども含めて一緒に考えてくれるはずだから。

 

 確かにココロの病の人々を取り巻く社会情勢はまだまだ厳しい。あからさまな偏見がこの日本では公然と具現化している。健常者とのズレがあることも屡々だと思う。だからかつての卑弥呼はココロの病だったとかりそめに追憶したところで、なんにもならない。絵空事であり綺麗事に過ぎない。

 

 生きづらさが影のようにつきまとう。鉛を飲んだかのような重たい時間が流れるのをじっと待ったり見届けたりする。こういう懊悩は健康そのものの人々にはなかなか理解できない。だから「どうしたの?」と声掛けするくらいで、その声掛けの裏には「面倒なことを言う」という《効率化》が歴然と垣間見える。それで釈然としないココロの病の人々は、大抵、度を外した怒り方をしてしまう。アンガーマネジメントの理論もそれで雲散霧消してしまうのだから、勿体ない。

 

 小説家マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』のなかで《個性になることが肝心》と諭す。人々と同じでなければならない理由などどこにもありはしない。むしろ違っていたほうがいいくらい。そこでココロの病の人々にとって、ズレを活用したほうがいいのでは、と、僕は痛感している。「みんなと違う」と嘆き続けず、違っているそのズレを積極的に活用する。そうせずに懊悩が続けば、やがて特権的な感受性も枯渇してしまう。