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星影にひそむ星々の会話~星座の文法~

精神障害者ピアサポートをしている僕の徒然

ブルジョアジーこそ革命の担い手となる続く歴史

凡庸さについてお話させていただきます、との艶っぽいまどろっこしさが特徴の私(たち)にとっての歴史への挑戦は続き、意に反してそれは時代への挑発だと馬鹿らしい誤解を受けるから、「我々」の中には不条理を感じる憐れな人々もいるのかもしれない。精神の病い、この重宝で不器用な呼ばれ方をする私たちは、長きに亘る「闘病生活」の中でいつのまにか《精神の特権》をとかく忘れがちにもなるのだが、こんなに馬鹿げた愚劣はない。そこへ『鈍感力』という不恰好な言説が醜く私たちに忍び寄るのだから、たまらない。時間が経てば《精神の絶対的優越》を誇示するのが孤児の努めではないだろうか。あのサルトルでさえ「ブルジョアジーでありながらコミュニストでもあり得ると考えている憐れな男」と同情しつゝ嗤っている。ポール・モランは「まるで劣等感の塊で、ルソーの再来みたいだった」と苦々しく悔しがる。愚の骨頂、もうやめませんか?


昨夜、何かの偶然で、フェラガモの香水を僕は買った。「お気に入り」の彼女が俄かに香水を欲しがり、980円の安っぽい香水を手にとっていたから、そんなワケの分からぬモノでは肌が荒れると思った僕は、遂にフェラガモに決めてプレゼントした。「お気に入り」の彼女は上機嫌。上機嫌のあまり、僕へ「有り難う」の挨拶すら忘れていた。「100人のガールフレンド」がいるに違いない、「お気に入り」の彼女は、孤独な僕を指して言う。どうせなら「100ダースのガールフレンド」と言って欲しかった。有り難う。


模倣する日本人、これぞ日本人の決定版みたいなアジアのどこかの島国の人々、それに適合するには「あまりにもフランス人の私(たち)」は、まだドーバー海峡を渡ったワケじゃないし、ニューヨークに希望を見出すヘマもしていない。「或る阿呆の一生」を遂げてからでは「遅すぎた」ことになる。陳腐な学校では「勉強するのに、遅すぎることなどない」と教えるが、そこの教員たちがそもそも「遅すぎた」ことを悔やんでいるのが実際で、「いやいや、もう少し勉強させていただきます、この小切手でいかがですか」とは永久に言えない教員たち。やおらその悔恨がコミュニスムに連なることもある。


豪華さや華麗さに圧倒されてしまう小ぢんまりとしたナンセンスな人々の「存在」は屢々我々を圧倒するけれど、冗談じゃない、その革命の遣り口は倒錯している。痛みはむしろこちら側にある。丹念に拵えた花園の木という木を伐採し、花という花を毟り取るのは、誰か?


書物の炸裂、ブルジョアジーによる革命は続く。