星影にひそむ星々の会話~星座の文法~

精神障害者ピアサポーターをしている僕の徒然

なかなか天使になれなくて

笑顔でさえも淋しげな彼女は手首を見せて私に言った「リスカリストカットの痕」。リアクションに困った私はそれでも微笑んだ。彼女にとって台所洗剤のCMやハンドクリームのCMは辛いのかもしれない。手に関するありとあらゆるものが、辛いのではないか。モーパッサンの短篇『オルラ』にしても鑑賞に堪えられないのかもしれない。鷹匠が鷹を巧みに扱う姿などにも苦痛を感じるのかもしれない。

 

「ザックリと切らないと…といつも思ってた、中学生の頃。ひどいときには外科に行って縫ってもらったの。壱万円も掛かるのよ、その治療費が」

 

私が訊くでもないのに、彼女は淡々と身の上話を続けた。「うちの両親は喧嘩ばかりしていてね、父はロクに働きもしないで朝からパチンコ。そんなだったから母の不満が全部、私のところにきて」一頻り俯いて彼女は「貧乏で貧乏で。私立の学校なんて行けなかった。普通の県立高校から、大学に行きたければ国立に行くしかなかった」あたかも国立大学に進学したことを後悔でもしているように、そう言った。そして「浜崎さん、手帳は、何級?」と今度は尋ねてきた。「あぁ、3級なの。私も3級」安堵して溜め息をつく彼女。

 

根拠のない自信を抱くのがいつもの私は敢えて不器用を装った。実際なんの拠り所もない自信を常に抱いている私はたぶん病気なんだと思う。誇大妄想でもない不思議な自信は何なんだろう?23区を敵にまわしても私は怖くない。とことん孤立しても私は怖くもなんともない。確かに昔は不安だった。不安で不安で仕方なかった。でももうそんな不安も雲散霧消した。こんな馬鹿みたいな私がもしそのうえ器用だったら、却って相手に不安を与えかねない。だから肝心なときには不器用を装う。壁ドンだなんて論外だ。おそらく私は極端に自分自身なんだと思う。いつのまにかそうなってしまったんだと思う。孤独感も不安感も、私は弾き飛ばしてしまう。

 

日本橋?行ったことが一度もない。東京駅の辺りには一回しか行ったことがない」

 

首を振りながらそう言う彼女。

 

「今度、行かない?」と私は言おうとしたが、やめた。軽薄に響く心配があった。そんなことを言おうものなら、私はホストでしかない。

 

彼女は誰がどう見たって美貌に恵まれている。服の着こなしも佳いからエレガンスにも恵まれている。そして何かを期待し、何かを忘却しようとしているのだが、忘却したいものを私に預けようとしているようだ。私に預けた忘却で、安心したいのだろう。今はただそれだけで、何かを求めようとはしていない。単純に、幸せになりたいとしか感じていない。その幸せは『青い鳥』を読んで満足する、物語を読んで満足する、といった性質のものだ。

 

「自殺願望がある。今でも私には自殺願望がある。ずーっと、それは消えない」

 

彼女はそう言う。聞いていて私は遣り切れない。その晩、私は重たい悪夢を見た。

 

人は、もう恋をするような歳でもない、と自らにも他人にも言い切れるだろうか。孤独なオンナと孤独なオトコが偶然、或る場所で会い、すぐ目の前で持ちつ持たれつの会話をしている場合でも、恋をするような歳でもないと照れ隠しに言い切れるだろうか。なかなか天使になれなくて…。なかなか天使になれなくて…。歴史はそもそも男にとって都合良くでっち上げられている。やれサムライだ、やれ幕末に文明開化だ。私はそんなものに飽き飽きした。なかなか天使になれなくて…、その羽はもうすっかり重たくなって、彼女自身では飛べなくなっているのかもしれない。