星影にひそむ星々の会話~星座の文法~

精神障害者ピアサポートをしている僕の徒然

慾望

確かな欲望ほど美しいものはない。それが開けっぴろげな性欲であったとしても。

詩人コクトー《今日では、愚か者でさえもが考えている》としばしば苦言を呈した。事実、私は愚か者だったから、かつては妄想のついでに何かしらを考えていたものだった。中学時代、高校時代、私は空想や妄想ばかりをしていたと思う。さほど勤勉でもなく、むやみに詩集や小説を濫読していた。夢想に耽りながら考えていた。今になり振り返れば、惰眠を貪っていたと思う。だからコクトーのこの発言で少しは気が焦った。時間だけが流れ去り喪失した気持ちが何しろ強かったから。

空っぽの中学時代、空っぽの高校時代。受験勉強や受験らしいこともせず、一切は過ぎていきますの体たらくだった。せいぜいクラブ活動のバドミントンに汗を流すことくらいしかしていない。授業が終わればなんとはなしに渋谷へ行き、同じ年頃の女の子たちに声をかける。飽きもしないでそんな生活を繰り返していたのだから我ながら呆れ返る。昼休みにはいつも夏目漱石の小説にかかりっきりで、漱石の文体の真似をしては何かを書いてひとり悦に入っていた。

何の取り柄もないそんな生活をしていた私がやがて欲望の権化となるなど当時の誰が予測できたろう? 私には書くことしかできない時期があった。書きたいという慾望が私の暮らしの全てとなった。ひたすらに私は書いた。書いていなければ、死にそうな気がした。それは不吉な欲望だったに違いない。書くというこの素晴らしい狂気は、時間と空間を蝕んでしまう。仮死状態のそんな最中に詩人コクトーが鳴らす警鐘は、キーボードを叩く音で掻き消されていく。

書いているうちに私はカラダが澄んでいく奇妙を味わった。空っぽのカラダ。空虚なカラダ。しかも体重が激減した。突拍子もなく瘠せているのにマンディアルグの小説の一節のように瘠せっぽちの知識人!と言ってみるのが辛かった。瘠せっぽちの知識人よりも私のほうが遥かにずっと瘠せていたのだから。

主よ、深きところから、俺は阿呆だ

詩人ランボーのこんな言説を枕にして眠ることの滑稽を私は、演じた。ところが恋愛の実際では私が演じることなど一度もなかったと思う。松浦理英子さんが書いた『ナチュラルウーマン』を実行に移そうとして、恋人のためにレモンを用意したことはあるが、演技ではなかった。

充ち足りた死者たちのように恋人と私は今にも死にそうで、奈落の底に落ちていった。私は画家クリムトを夢見た。あの慾望の開示こそが美しかった。それで世界の調和がとれるのならそれでいいではないか。緻密な世界、艶やかな慾望、それでいいではないか。子どもは計算を丹念にして恋愛には破れるのが当たり前ではないか。大人は感受性の世界で創造に余念がなく、緻密な計算には向いていない。慾望を不吉とする子ども、その成長のみが期待される。かくも麗しい慾望。
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