星影にひそむ星々の会話~星座の文法~

精神障害者ピアサポートをしている僕の徒然

フツーであり続ける勇気

フツーであることこそが非凡な能力
まことしやかに《才能》が取り沙汰され、それが貴重な能力だとして騒ぎ立てられるが、社会的な実際ではむしろフツーであることのほうが難しい。天才ならば話は別だが、そうでもない場合のほうが圧倒的多数だ。

何かしらの妄想だとか、何らかの幻覚だとか、そんなあやふやで曖昧な現実離れが、誰ひとりとしてそれに信用など置いていないにもかかわらず、突如として誇大妄想の形式で爆発的に惹起するとき、人の不幸が始まるのではないだろうか。

勿論そんな些細な誇大妄想が社会学ヒエラルキーの頂点に登りつめる例もないわけではないが、たいていそれは次第に敗北を余儀なくされる。と、いうのも、所詮は蚊帳の外に過ぎない暗〜いところにしか咲かない花がそれだから。やがてその花は向日葵に出会うかもしれない。たんぽぽに出会うかもしれない。向日葵やたんぽぽは確かに道ばたに咲くフツーの花々だが根はシッカリとしている花だ。高嶺の花ではない向日葵やたんぽぽのそばに仔猫は憩うことだろう。

私たち人間は、社会の中でしか生きられない。いくら都会が摩天楼に充ち満ちても、やっぱり向こう三軒両隣が基本となる。別の言い方をすれば、向こう三軒両隣がシッカリしていれば、高度に洗練された福祉などあまり大して必要としないのが、健やかな社会だと思う。

フツーであることこそが非凡な能力だと誰もがうすうす気づき始めている。非凡がそのようではなく凡庸な非凡のままなら英雄になるだろう。そのまんまの解釈しかできないおそらく単純な英雄にしかなれないだろう。そして私たちの社会にそんな凡庸な非凡の英雄など必要ではないのだ。

フランツ・カフカのあのザムザがそのまんま英雄へと堕落するのは、恐ろしいことではないかな。それは、悲劇だ。

フツーであることの勇気を私たちの社会は悲願としている。
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