星影にひそむ星々の会話~星座の文法~

精神障害者ピアサポートをしている僕の徒然

チークに選んだオレンジ

肌がベタつく暑い季節が終わる頃、そよ風にキャミソールのプリーツをはためかせながら彼女はもうずいぶんと躊躇っていた。水着はとっくにしまったし、セミロングだった髪の毛を少し短めにヘアカットをしてもらい、そうしたら首筋が風にひんやりして心地良く、これから始まる新たな仕事に備えパールに星を散りばめたネイルアートを念入りに落とし、夏用のファンデーションは要らないと判断してから、そう、ささやかに躊躇い続けている。彼と別れる判断だけは早かったのに。

 

ちょっと神経質そうに彼女はスマートフォンを覗き込んだ。アドレス帳に彼のデータが消去されているのを再確認してから、そっと右目を掌で抑える。かろうじて大丈夫、そう独りごちた。初夏に彼から出し抜けに襲われ、右目がそのとき少しだけ傷ついた。夏の間ずっとマスカラとサングラスで誤魔化していた。「わりー、悪かった」と彼は直ちに謝りはしてくれたが、その最初から彼女は夏限定の彼を棄てる覚悟でいた。どうやら彼は名門の大学出身らしかったが、何かと暴力をしてくるので「サイテー」としか感じなくなっていた。それに根も葉もない虚ろなエリート意識の彼のことが煩わしかった。大丈夫、もう一度だけ彼女は呟くと、背筋をピンと伸ばして化粧品の専門店へ入っていく。「グロス、なんか要らない」彼女は立ち並ぶグロスを左目で一瞥した。

 

「お決まりですか?」販売員が柔らかい物腰で近づく。ヘリオトロープの香水を販売員が付けていることにすぐ気づいた。少し辛いような特有の香り。「漱石、読んでるな」勘が彼女は鋭かった。辛い香りが、物腰の柔らかさをいっそう引き立てている。流石、化粧品専門店の販売員だけあってセンス良く演出が巧みだ。いつしか右目のこともすっかり気にならなくなっていた。

 

化粧品の専門店から帰宅すると、昨日のうちに撮っておいた自分の顔写真を眺めた。会社の行き帰りにカードをスキャンする、そのための証明写真だ。写真の右目には遜色がない。安堵して彼女は心療内科のDr.が処方してくれた安定剤を飲んだ。Dr.はかなり気難しい人物ではあるにしても、親のいない彼女にすればほんとうの父親のようでいつも嬉しい。「無理しなくていいから、七転び八起きだよ」Dr.はそう微笑んだ。

 

考えてみれば、彼女は屈辱しか味わったことがない。その度にDr.に泣きついてきた。しかし慟哭を鎮めるのは、最終的には自分自身だけだった。彼女はDr.の薦めにならって詩集や小説を大量に読んできた。そして遂に『嫋やかに、しなやかに生きる』と題した作文が地元の自治体が発行する機関誌に掲載された。快挙だった。初めての屈辱知らずの経験だった。チークに彼女はオレンジを選んだ。秋の夕陽が部屋の中に立ちこめていた。

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