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星影にひそむ星々の会話~星座の文法~

精神障害者ピアサポートをしている僕の徒然

キラキラとした特権的な感受性(笑´∀`)

徒然のこと

かなり僕は疲れているような気がする。

普段は結構器用なほうなんだけれど、今日は少しずつ違っていて、優しい上司にも手厳しいメールを送信して後悔した。地方行政との折り合いがつかず、なんだか苛立ちを禁じ得なかった。働き過ぎなのかもしれない。精神障害者への臨時給付金を巡り、僕は地方行政と噛み合わず、電話中に《公権力》とか《効果》とかなんとかと、様々な法的概念が浮かび上がり、ついつい頭でっかちになってしまった。先方様の言う「要件」という概念に、僕の脳裡が正に燃え上がり、しかも努力虚しく敗退しない訳にはいかなくなり、湯気と化した自尊心だけが残ってしまった。

 

僕の身近に地方行政に就く友は皆無だ。付き合っていた学生時代の仲間たちは、霞ヶ関に行ったり、法律家になったりで、地方行政に携わる友がいない。それで僕は慢心しているのかもしれない。疲れているに違いない。

 

お・や・す・み・な・さ・い・・・・

煌めきの翳に潜む狂気

エッセイ

当時の日本は未曾有の好景気で何ら失ったものもなく、正に世界経済を牽引していた。人々は《凡庸》と口々に笑い、時に嗤っても何故か嫌味がなかった。東京は満天の夜空を兆単位のネオンで焦がし、かりそめに月が欠けてもあの圧倒的なネオンで夜は哄笑の一人舞台となっていた。PCのシェアをNECが独占し、先端技術に於いても日本は何もかもを掌握していた。いざなぎ景気と呼ばれたあのバブル経済を経験した僕はその頃、天をも突き落とそうかと目論む自尊心を抱いた学生だった。当時の僕たちにとって大学は毎日毎日がファッションショーの舞台で、都内の学生街はボストン界隈の大学街を侮ることに長けていた。あの頃の僕たちの圧倒的な経済力は、形容のしようがないほどで、日本製でない製品など商品としての価値がないように感じた。SONYの自尊心と僕たちの虚栄心には際限がなく、銀座は天下を握り締めていた。作家は全くのスターで、星などなくても僕らの航海には詩集が羅針盤となった。この完璧な安全の確保は《敗戦》をすっかり塗り替え、しかもナショナリズムへの堕落を知らなかった。海外への観光をこぞって僕たちはして、通貨の円は世界中で歓迎されまた妬まれた。僕たちはロストジェネレーションなど知らずにひたすら勝ち誇った。誰もが女優だった。

 

着飾った僕たちの行方に、不安などある筈もなく、しかし最高度の好景気の代償として孤独を支払いはしたものの、華やぐモードを担保として不動産の購買力をしたたかに確かなものにしたのも事実だった。TOYOTAのクルマのアクセルを踏みしめ、大磯ロングビーチバイパスを全速力で駆け抜けた。《この現実》が瓦解して《嘘》になるなどいったい誰が予測出来ただろう?

 

派手な男女だった私たち、煌めきの翳に狂気が潜むなど信じられなかった。祝福の喝采の直ぐ隣に、虚ろな狂気があるなど、考えもしない。

 

不意に気がついたら、僕は精神科医の前にいて、「先生、神経症ですね、僕は?」項垂れた。

それでも愉しい仕事

大変なのが僕の仕事のいつもなんだけれど、もし今の仕事がなかったら、と想像に難しいことを考えただけで恐ろしい。仕事を通して成長することが殆どの僕にとって、仕事のない生活というのは想像さえできない。とりとめもなく散歩したり、思考を虚しく逡巡させたところで、僕のような人間は生きていけないと思う。「責任ある選択としての創造」とご立派なことをロラン・バルトは記述するが、既にその「責任」の時点で才能のないことが明らかな場合が多い。しかも何の責任も伴わない創造でしかない代物を拵えるのが関の山だと思う。仕事は少なくとも僕にとっては唯一無二の肝心なものだよ。

 

人間は社会的な生き物である、そう言った偉人がいる。引きこもりの患者はともかく、社会なしに生きていける人間はいない。引きこもりの患者に必要なのは、鏡だと思う。鏡に映るグロテスクな醜さに、ハッと気づけばまぁ第一歩になるのだろう。映画であれ小説であれ美術であれ写真であれ、複数の鏡を見るのが望ましい。ドグマを自ら破壊するには、それが最も穏当な手段ではないかな。まぁ当面は精神科のDr.が処方する安定剤なんだろうけれど。ただそれも見方によってはかなり異常な事態で、安定剤を飲むのは一般的な普通では決してない。そのことを鏡から学ぶのは賢明だと思う。ODがいかに異常なのかをそこから学ぶことも出来るだろう。尤も精神科のDr.は多かれ少なかれその異常に患者が気づかないよう魔法にかけてしまうんだけれどね。そうすればDr.にしても製薬メーカーにしても、双方がなんの苦労もなくボロ儲け出来るという無責任な社会の仕組みが透けて見える。滑稽だよ。大した秘密結社だね(笑

 

 

 

 

 

 

 

 

UH,FU,FU,FU

徒然のこと

今朝、いきなり仕事がドバッと雪崩をうったようにやってきた。いつものこととはいえ、流石に消化不良になって、体調を崩した。うっかり安定剤を今朝は飲み忘れ、まぁ様々なファクターが複雑に絡み合い、体調を崩したのだった。魔女のように不思議な微笑も浮かばず、不敵な表情も浮かばない。さりとて颯爽とした微笑みもなく、職場に辿り着く迄は正に地獄のような思いがした。いざ職場に着くと、ひどい動悸で、こんなにも小心だとは気づいたことがなかった。だがその精緻な記述は避けよう。読んでも詰まらないと誰もが感じるだろうから。

 

生ける屍のように街を漂う孤児たちにとって、化け物などは茶番にしかならない。化け物の殆どがなにやら諷刺の体裁をとり、それぞれの観念を取り繕っている。

 

凄ーく地味なモードで、昨日フリーマーケットで買ったばかりの、グレーのダウンジャケットを着て、出掛けた。しかも見るからに、安っぽいダウンジャケット。いや、安っぽい、などと言える柄でもない。とにかく、今朝はとことん地味に纏めてみた。技術としてのドン・キホーテ、「CPUは、COREI7]だから、値が張り、最高級。そのVAIO製のノートPCは30万円くらいはした。《紳士連、いったい如何にしてカネを儲けましたかな?》UH,FU,FU,FU.

 

心境の変化ではない。それにしても、今朝の僕はかなりヘンテコな恰好をしていた。恥ずかしいくらいだった。それでも「愛着障害」につき読んでみたのは、Kindleだった。

 

断片、になってしまうのは、どうしてなのか? ファシズムの回避のために、こうなった。諍いの終わり。UH,FU,FU,FU.

節約したいけれど・・・

徒然のこと

先日、チームの或る人が「愛着障害だから」と言ったので、僕は漠然とノートに「愛着障害」と記述して、実は不安に駆られた。過去にその用語に出くわしたことがあったが日々の仕事の多忙を理由に詳しく調べ上げることを怠っていたからだ。そこで日曜日だった昨日、Kindleで「愛着障害」を片っ端から調べ上げ、その道の専門家の書籍を殆ど全て買い尽くす。そうしたらかなり莫大な費用がかかり「また、やっちゃったなぁ」と落胆した。

いつもこんな具合で、Amazonからの今月の請求が12万円を超えた。

几帳面な性格だから仕方ないかな、とも思う。

万が一、僕に妻がいたとしたら、もうとっくの昔に愛想を尽かされているか、殴り飛ばされているか、「酒を持って来い!」と怒鳴られているのかもしれない。

両親から溺愛され育てられた僕は、ヨチヨチ歩きの頃から、神保町へ連れて行かれた。亡父は僕の教育費に糸目をつけず、何しろ本を買い与え、気がついた頃には書籍代だけでも億単位の金額が書店へと注がれた。小学校の担任の先生も「東大に、行くのよ!」と必死だった。小学五年生の時に、すっかり僕は疲れ果てた。「もう、疲れたから、パパ、座ってもいい?」亡父にそう言い、四谷大塚も何もかもどうでもよくなった。やがて奇しくも或るアイドルグループのお姉さんたちが「普通の女の子に戻りたい」と泣いていた。なんとなく僕には彼女たちの気持ちが分かるような気がした。

 

「エレガンスは崩すためにある」と作家のポール・モランは書いている。何気なくモードを着崩すのが、洒脱とされる。何事もあんまりキッチリし過ぎていると詰まらない。作家のポール・ヴァレリーのスタイル、あれじゃいけない。

 

或る時期に、僕には「活字」しか目に入らないことがあった。電車に乗っても、バスに乗っても、僕は「活字」だけを追い続けた。時間も空間も生憎わからず、手に負えないような存在になっていた。そんなアンバランスが延々と続いた。僕は「動く書物」と化しつつあった。戦争の勃発は醜かった。愚劣な戦争を僕は秘かに軽蔑していた。ふとしたことから、僕は心療内科のフロアに足を運び、全てを失ったような気持ちがしていたが、実は全てを掌握したい願望が強かった。言葉は世界であり、世界は言葉である必要があったのは、戦争をなんとしても回避しなければならなかったからだ。紆余曲折を経た今現在、益々その想いは強まっている。

 

失われた時を求めて、何になるのだろう? 虚しく漂った僕たちの荒唐無稽な過去を掬い取って、いったい何が得られるのだろう? 前進するために生きている僕たちと、僕たちの生きている世界に、なるべく早く水をもたらす必要があるだろう。水、そう。

 

水、確かな水が、腐ることなどありはしない。

 

「故きを温ねて新しきを知る」こともある。雨乞いしていた憐れな過去と訣別するために、何度も時間を刻み続けて前進するために。際限もなく。

タトゥー、グロス、ベッドの外のキス

小説

そんなに熱くもないキスを私はごくありきたりに終わらせた。TVの陳腐なドラマが「フツー」と呼んでいる、そういうキスだった。私はちょっと有名な「フツー」の大学で理学を学んでいる。芸術学部にほんとうは籍を置くつもりだったが、法学部と理工学部を受験して、後腐れしない理系のほうが佳いと感じ、祖母の反対を押し切って理工学部に籍を置いた。浪人して国立大学に行く手もあったが、時間とお金が勿体ないから、現役でフツーの私立大学へ進学した。文系と理系の双方の学部を受験しても結局は共に合格してしまう、これじゃぁ就職の時に企業からフィルターを掛けられても仕方ない、そんな退屈な大学に過ぎなかった。だが中には浪人して入ってくる学生もかなりいたし、理工学部にのみ的を絞ってわざわざ入ってくる文学音痴みたいな学生も沢山いた。入学式を終えて項垂れている私に、声を掛けてきたのが所謂「附属上がり」の、陽気で洒落たセンス溢れる男の子たちだった。「外部?」なかの一人がそう言った。「なぁに、それ?」私は北関東特有のイントネーションで応える。小首を傾げた女の子みたいな仕種をする彼は「だね?」と少し微笑んだ。嫌みの全くないその微笑みは、恥ずかしそうな笑みだったから、私は驚いた。「内部、なの? あなた?」そう私は目を丸くして訊いた。そう問いながら私は彼が東京の高校出身であることをなんだか祈った。「うん」花のように彼は笑った。「後輩に、女優がいて・・・」どこまでも女性的なこの男の子をついつい私は「欲しい」と感じてしまう。咄嗟に周囲を見回した。ライバルをチェック。「学部は?」強引のようだが私は訊かずにはいられない。「うん、法学部」相変わらず女の子みたいに花のように笑う彼、絶望する私は青ざめた。

 

「抱いてくれないの?」あの彼はもういない。私の前にいるのはバイト先の店長。「困るんだよな。タトゥーは、禁止なのに」この店長、気持ち悪い臭いのオーデコロンをいつもつけている。「誰が決めたの、禁止って?」苛々した私はTVを消した。「法律だよ」

私は店長を蹴飛ばした「やめてくれない? 野暮な冗談、言うんじゃないよ」すると店長は無理矢理キスしてきた。生臭い舌を私の口の中に入れてきた。アルコールの残骸が入ってくる。なにもかも男性的なそのやり口に私は嘔吐しそうだった。

 

偶々、あの彼を見た。女優と歩いている彼は、女優にしか見えない。私は、馬鹿だ。

 

チークは、このローズが佳い。グロスは、防備と美貌のため、あ、つけすぎないように注意。あくまでも、あくまでも、Leolaのように。好き? 嫌い? 大好き? 届けたいの、ただね、ただ、届けたいの。はじめて声を掛けてくれたあなたが、素敵で、好きで、大好きで、私、なんにも祈らず自分の過去にだけ祈ってる。自分の過去以外に決して祈らないのが、不器用な私の誠実さだから。ここに、ここに来て。ベッドの中に来て。タトゥーに、優しく、触れてみて。この花柄のタトゥーに。笑ってるみたい。笑ってるみたい。素直になって、私、告白したい。たとえ夢が破れても、愛の証しが傷に残ればそれはそれで幸せだから。ずっと、私、傷を見つめて見守るから。

 

 

毎日がファッションショーでダンスパーティーだったあの頃

エッセイ

追憶、というあまりにも甘美な名詞をあの頃のために費やして佳いのかどうなのか、迷う。凡庸といえばそれ相応に凡庸だったに過ぎなかったのかもしれないから。充ちていく恋もいつかは必ず滅び去るように、あの日々も追憶から滑り落ちやがて記憶から滅びることだろう。未曾有の好景気、マスコミがそう喝采したあの頃を懐かしむ者ももはや少ない。歓びは、一滴の涙でしかなくなった。それを哀しみと呼んでみることを僕はひどく警戒する。今や銀座もただの場末でしかなくなった。僕はさて何処へ行けばいいのだろう。すっかり変わり果てた裏町としてのこの銀座で、馬鹿らしいスロットに興じろとでも誰かが言うのか。朽ち果てた東京に残るのは、釣り銭としての虚しさしかない。

 

夢と幻が交錯する。経糸としての時間と、緯糸としての空間が、万華鏡を織り成すあの過去を蹴り上げる。バーボンを抱えて小走りしながら逃げ去る女を追う男もいない。アスファルトを剥げば東京なんて砂漠の資格さえない愚の骨頂になる。こんなところで僕らは無意味な汗を頻りに流して「お疲れ様です」だなんて言っている。そんな社交辞令を取っ払えば、高らかな哄笑が俄に露わになり、犬を連れたファシストでしかない人々が三々五々歩くのが見えるだろう。しかしそれは《都会的》ではない乱暴とされ、《紳士的》ではない振る舞いと看做されるから、若きフローベールの例の怒りを復活させることで満足しようじゃないか。小説家のフローベールが、年上の恋人、あの美貌の詩人ルイーズ・コレに夥しく渡したラブレターを読み返そう。決裂したこのカップルも、所詮は未来への陳腐な占いに疎かったのだ。

 

沈痛な額を見れば分かる。緋色の眼が悲鳴をあげる。僕らの目には幻と成り果てた夢が視える。日々の荒唐無稽な屈辱が僕らの尻をいつも叩く。政治学原論の本の数々が、古本屋の軒先へ無造作に投げ出される。壊れた心が豊かな瞳に執着する。水・水・水、東京の水が東京湾に注がれて、隅田川が干からびていく。雨乞いこそが僕らには似つかわしいのに《科学的》ではないとの理により、退けられる。こんな体たらくに過ぎない現代が久しく卑弥呼を探している。やれやれ。

 

恭しく教養を捧げ持つ紳士淑女も、服を脱げば福を逃すことさえ理解しない。柔らかい肌の彼方に待つのは、妙に怒った醜い面構えの般若であり、露骨な罵声の応酬だけだ。知性がその程度に過ぎないのなら、感性が知性を罵倒し尽くすことでバランスを保とうと願うしかない。此処では星など見えないから、人物をスターと呼ぶことで満足しなければならない。可笑しな星だ、仮面を被った似非の道化師が芥子の実を割って逮捕される。

 

追憶、まだ僕らはロマンティシズムを洗い落とせずに苦しんでいる。恋文の最後に「追伸」と書くのは何かの勘違いに過ぎないのに、飽きもせずに僕らは。

 

1月2日から仕事です

徒然のこと 精神障害 難病 Photo

働くことが好きなので、1月2日から仕事が始まります。1月1日から仕事にしたかったのですが、「それって、マズいよ」と言われて、仕方なく2日からの仕事になりました。まぁ1月1日から仕事を致しますと、夢も希望も利用者さんに与えることがムズカシイとのご判断なのかもしれない。現実では1月1日から仕事なのか・・・と、クライアントが絶望的に落胆する心配があるのですね。そんなチョットした技術的なことから、2日からの勤務です。

冬は不思議な色を街並みに醸し出しますね。黄色や緋色や、すっかり色づき、緑の葉が沈み込むほどで。枝にLEDのライトを施してクリスマスのイルミネーションも綺麗。クリスマスにクライアントのひとりひとりにメッセージカードを添えたケーキをプレゼントできたなら素敵なんだけれど、なかなかそうも出来なくて、現実は厳しいですね。

幸せそうな恋人同士のお二人なら、終わりを知らないかのような噴水があればいい。

この師走は終えてみればあっという間なんだろうけれど、気忙しさからついつい多忙だと感じてしまいます。気分転換してどうにか乗り越えたいなぁ。僕にとっての気分の変え方は、音楽を聴くことで、ほんの子どもの頃から聴き慣れたJazzに拠ってです。亡父が大変なJazz好きだったから、音楽といえば僕の場合Jazzなんです。気取りのないJazzを聴いていると、耳のためにも佳いんだと思います。数年前に仕事のストレスから僕は突発性難聴になったことがあって、左の聴力が著しく低下しました。そのときにはもう死んだような気持ちになって、車イスでの生活となり、心が青ざめたようでした。点滴を何度も腕に差し込み、それでも治らず、近所の浅草にも行けなくて、落ち込みました。

バロック

バロック

 ピアノは時折とてもエレガントで、僕は取り分け大西順子さんのJazz Pianoを好みます。特に『バロック』が好きですね。クラシック音楽小澤征爾さんとのコラボレーションもしているこの『バロック』。

 

健康と呼ばれているものが何かしら当たり前だとされる場合があるのですが、健やかさは病人から眺めれば奇跡です。僕のような統合失調症ですと、生涯に亘り精神安定剤を飲み続けなければなりません。ストレスで突発性難聴になれば、音楽を聴くことそれ自体が奇跡です。甘美に走りすぎたエロール・ガーナーのピアノよりも大西順子さんのピアノは、力強くて、時計の針のように正確だと思います。

 

生まれてから生涯を閉じるまで、ズーッと病院の中で暮らさなければならないひとがいます。

 

その方に寄り添うことは出来なくても、その方の想いに寄り添うことこそ大切だと思う。

 

 

退屈凌ぎに観念としての《民衆》について思索してみませんか?

エッセイ 徒然のこと

冷たい雨が降りしきる東京の下町、夜明け前です。

洗濯には向いていない生憎の天候となりました。

子どもたちにとっての最良で最善のクリスマス前の雨となりますよう、祈ります。

クリスマスは、雪の降るホワイト・クリスマスがやっぱり佳いんじゃないかなぁ。

あ、そういうロマンティシズム、懐かしくて、僕は好きです。ハイネの詩集を紐解く真夜中があっても佳いんじゃないかなぁ。ロマンティストの私たちにとってのいつも《聖典》であってほしいのが、ハイネの詩。シュルレアリスムにとってランボーロートレアモンの詩集が《聖典》となったように、お洒落でチャーミングな私たちにとってハイネの詩集がいつも《聖典》となりますよう、祈ります。約束。

 

振り返ってみますと、魅力的な私たちにとって、道端を行き交う人々(チョッピリ冷たい感じがする)は、少し不幸で、陰鬱な表情を披瀝して、少々野暮ったい身なりが育ちの悪さを露呈させてもいる、不思議な《不在のような存在》でしかなかったのではないでしょうか。作家ブルトン流に言えばそれは《染み》のようなもので、都会の虚ろのシンボルみたいな。渾沌、このカオスを象徴する陰鬱で虚ろな面々。吐き気さえするこれら不気味な無骨を避けて、魅力的な私たちは詩集を紐解き、小説を拝読し、美術や写真を鑑賞し、造形芸術に吐き気の主たるファクターを投影させては歓んでもいたのは、確かでしょう。人間の条件について思考し、社会の成り立ちについて思慮を働かせ、時には法律学を無邪気に弄んで優秀な成績をも修めてしまう、そう、魅力的な私たちはすっかり何か得体の知れないものを軽蔑することに慣れ親しんでいたのでしたね。ガサツなもの、不恰好でがさつなありとあらゆるものを、忌み嫌う傾向の確かな強さ、そう、魅力的な私たちは私たちが感じている以上に圧倒的な強さを繊細に保持しています。美、勝利者としての確かな強さ。微笑む私たちの秘密の秘訣。音楽でさえもがディテールとなる魅力的な私たちの嬌声、なんというこぼれ落ちる笑顔の声の連呼でしょう。美。

 

こういう条件がなければそもそも思索だなんてできる筈もないというのが、ほんとうの事実です。これが苛酷な真実です。強情なヴィクトル・ユゴーは、こういう天分を頭ごなしに要求します。魅力的な私たちが戦争や諍いを疎んじるのは、もうとっくの昔から私たちが勝利者として時空を疾駆しているからです。戦争や諍いを好む者がジェントリー階級に属しない人々であることを、今日では知らぬ者がいません。これらガサツな人々はモードに無頓着で、最先端のモードを尊敬することさえロクにしません。自尊心の強い帽子、単調な優雅さの確実な強さ、これを全く知らない不幸。

 

不幸な《赤い血に飢えた民衆》はグロテスクなことこの上ないものです。私たちはモーツァルトを聴きながら完璧に考え、最善を引き出して行動しています。限界を知らない私たちは敢えて宇宙という限界を拵えます。こう条件づけることにより、私たちは私たちのバランスを維持し、これを秩序としています。私たちにとって重要なのは哲学ではなく、実は神話なのですね。美、そして神話。

 

祝祭を知らない不幸、グロテスクな粘液質の人々、べったりとした餅みたいなモチーフばかりを描いて縷々として前進しない人々、魅力的な私たちはこれに違和感をおぼえます。成長しつつある賢いマスコミさんは、これらの怠惰に《自己責任》という標語を与えつつあるようです。それにしてもほんとうに不幸があれば、優しい手を差し伸べる用意も準備も私たちにはありますね。人間ですから、最善を知悉しています。

 

《民衆》という観念を慮る上で肝心なのは、魅力的な私たちもそこへ《参加》する必要があるんじゃないか、という幸せな法則で、これによりかなりの不幸せを排除できると思います。さて、ここで謎が解けた、と感じる幸せな人もいることでしょう。ロラン・バルトが稀に自殺を促し得たのは、彼が《民衆の一員》として立ち居振る舞ったからです。それは時代の要請であり、社会からの要請であり、なによりも誠実さからの要請でしたね。そして魅力的な私たちはこんな言葉を回想するのでしょう、《頭の良い奴ってのは、人間に対して優しいものなんだぜ!》。